ある日、小学校から帰ってきた息子がこんな質問をしてきました。
「俺って何教?」
聞けば、仲の良いA君に「お前はキリスト教か?」と尋ねられたそうです。 我が家は正月神道・葬式仏教な典型的な日本人家庭。祖父母はキリスト教徒でもあります。説明が難しく息子が言い淀んでいると、A君は早合点してしまいました。
息子「俺の片方のおじいちゃんとおばあちゃんはキリスト教だけど……。」
A君「そうか、良かった!じゃお前もクリスチャンだな!うちのクラスにはキリスト教の奴があんまりいないんだよ!他の奴らはみんな人間は昔、猿だったなんて言ってるけど、人間は神様がお創りになったんだよな!人間が猿だなんて言っているやつらは、皆 stupid(バカ)だ!でも、お前はマジで最高の友達だぜ!」
息子「……。」
シリコンバレー、宗教のるつぼで
息子の通う小学校は、多宗教が併存するシリコンバレーのまさに縮図。前出のA君は、生まれも育ちもカリフォルニアの、韓国系アメリカ人でキリスト教徒。我が家の隣に住んでいるクラスメイトのB君は、ご両親がイラン革命の際にアメリカに亡命してきたイスラム教徒です。インド国籍でヒンドゥー教徒のC君は、ランチタイムになると決まって息子のお弁当のおかずをねだりにくるのですが、焼売の肉がチキンかどうかを必ず確認するそうです(ヒンドゥー教徒が牛肉を食べないのはよく知られていますが、豚肉も「不浄である」として食べない人が多いのです)。シーク教徒のD君のトレードマークは頭に巻いたターバン。林間学校のシャワーの際は、皆D君のターバンの中がどうなっているのか興味津々だったそう(そして髪がとても長いことに皆たいそう驚いたそうな)。
様々な価値観がせめぎ合う中で、小さな宗教的摩擦はそれこそ毎日のように発生します。子供同士で小競り合いあいをしている時によく使われる台詞が、"stupid(バカ)"、"sucks(サイアク)"、"annoy(ムカつく)" に続き、"racist(人種差別主義者)" だというのもこの土地ならではの光景ではないでしょうか。
アメリカの宗教的矛盾
合衆国憲法修正第1条には、「議会は、国教を樹立し、あるいは、信教上の自由な行為を禁止する法律(中略)を制定してはならない」という一節があり、政教分離の原則を規定しています。しかし、人口の8割がキリスト教徒であり、さらに建国以来の歴史の中で、白人のキリスト教徒が長い間支配的立場にあったこの国では、愛国心とキリスト教の強烈な結びつきがあります。そのため、本来ならばいかなる宗教とも縁がないはずの公教育でも、キリスト教をベースにした愛国心教育が行われているのです。そしてその矛盾はしばしば議論を引き起こしています。アメリカの公立学校では、毎日朝礼があります。生徒たちは起立し、合衆国国旗に顔を向け、右手を左胸の上に置いて、アメリカ合衆国への宣誓である ”Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)” を唱えるのです。
Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.私はアメリカ合衆国国旗と、 それが象徴する、 万民のための自由と正義を備えた、 神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、 忠誠を誓います
この中の one Nation under God(神の下の一つの国) というフレーズの中の神とは、大文字で始まるGodであることから一神教の神を表すことがわかり、それはユダヤ・キリスト教の「神(ヤハウェ)」を指すというのが一般的な理解です。
世俗主義的な日本人の感覚からすると、違和感を感じるこの慣習については、2002年サンフランシスコでとても興味深い裁判がありました。とある無神論者の父親が「8歳の娘が学校で ”Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)” を唱えさせられていることは,合衆国憲法修正1条の政教分離原則に反する」として訴え出たのです。
この父親の訴えに対し、第一審である地裁は原告敗訴の判断を下しましたが,第二審の第9巡回区連邦控訴裁判所は,2002年に”Pledge of Allegiance(忠誠の誓い)” は違憲だという歴史的な判断を下し,原告側の勝訴となりました。しかし、続く連邦最高裁は第9巡回控訴裁の違憲判決を覆し、原告の訴えを「原告適格がない」と門前払いする判決を言い渡します (Newdow氏は当時娘の養育権をめぐって元の妻と争いになっていた)。忠誠の誓いの合憲性・違憲性についての公的な議論は避けられた形となり、以降、公立学校における忠誠の誓いは従来のまま継続されています。
イギリス国教会の弾圧を受けたピューリタン(清教徒)たちによって創られたアメリカ。今では自由の国というスローガンのもと、世界一の宗教的自由と寛容性を標榜していますが、実は先進資本主義国家の中では宗教性の強さが際立つアメリカ。一部の米国市民、は強い選民思想と自国に対する正当化観念を持っていて、彼ら自身はそれらが自由を求めて戦った建国精神に由来するものだと信じて疑いません。他者から見れば、それは強い信仰に裏打ちされたものとしか理解できないのですが。
小学校は宗教戦争の最前線であった
その多様性ゆえに日々宗教的摩擦にさらされるシリコンバレーは、アメリカの中でもずば抜けてリベラルで、宗教的寛容性が高い土地だと言われています。けれども、アメリカの他の地域と同じように、社会通念の源泉にはキリスト教的な倫理観が鎮座している印象があります。それでも様々な宗教の(割と)平和的な併存が実現しているのは、理解や尊重が進んだ結果ではなく、触らぬ神にたたりなし、アンタッチャブルなものとして互いに距離を置いているからであり、さらにはアメリカの国教としてのキリスト教の存在を、他宗教の国民が黙認しているからでしょう。生徒の半数以上がキリスト教徒ではない、息子が通う公立の小学校でさえも、年間を通じてキリスト教に由来する行事が行われています。クリスマス、バレンタインデー、聖パトリックデー、イースター。もちろんキリスト教徒以外の生徒への配慮は徹底していて、クリスマス休暇前に行われるパーティーは「クリスマスパーティー」ではなく「ウィンターパーティ」、 ”Merry Christmas!(良いクリスマスを!)” ではなく、”Happy Holiday(楽しい休暇を!)” となりますが。
我が家の隣の学区にある小学校の幼稚部には、10年間続くクリスマスの行事がありました。授業中にサンタクロースに手紙を書き、トナカイをテーマにしたクリスマスパーティーを開催するのです。さらに、近くのカフェに出向き、ホットココアを飲みサンタクロースの膝に座る、というフィールドトリップも授業の一環として行われていました。
2015年のクリスマス前、ユダヤ教徒の一人の母親が声を上げます。彼女は、一連のクリスマス行事が「キリスト教を他の宗教よりも尊重している」として中止を求めました。教育委員会と校長はすぐに対応し、フィールドトリップは中止されましたが、今度はこれに複数の保護者が猛反発します。クリスマス行事を推進する保護者たちは、ユダヤ教徒の母親の主張こそが宗教的寛容を欠くものだとして批判しました。ユダヤ教徒の母親にはSNSを通じて誹謗中傷や脅迫メールが続き、娘は学校で護衛が必要になるほどでした。
小学校を舞台にしたこの「宗教戦争」は、全米でもニュースに取り上げられ世間の論議を引き起こしました。米国では、自分たちが奉じている宗教は世にある宗教のひとつにすぎないものであるという事実を理解しない人々も多く、それは時に彼らを不遜に見せます。最も、全ての神・全ての宗教が等しく尊いと考えるのは、八百万の神を持つ日本人ゆえの独特の宗教感かもしれませんが。
シリコンバレー生まれの新しい宗教とは
宗教は有史以来人々の心の拠り所であった一方で、多くの紛争の原因となってきました。昨今では後者がもたらす弊害の方がより注目を集め、宗教対立の解決策はいつまでたっても見つかりません。そんな中、今まさにシリコンバレーで、これからの世界を作る宗教が生まれつつあるという見方があります。
へブライ大学の歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、キリスト教もイスラム教も、21世紀的な問題を解決するだけの力はないと断言します。2045年には人工知能は人間の脳を超えるシンギュラリティ(技術的特異点)に到達するといわれていますが、新時代の到来の中で人々が善悪の判断基準とするのは、従来の宗教倫理や個人の内なる声ではなく、データやアルゴリズムであろう、とハラリは唱えます。
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確かに、この土地にいると、毎日のように自分とは異なる倫理観にぶつかり、自身の正当性を問い直さなければならない状況に遭遇します。寛容とか多様性を認めるとか、聞こえはいいけれどぼんやりした理想論ではなく、もっと絶対的に信頼できるもの、不変のもの、そして現実的な問題を解決できる力があるものが求められているように思います。既存の宗教よりも、膨大な統計から導き出されたデータの方が、人生の羅針盤として有効であるという説は、決して荒唐無稽には聞こえません。
真理はどこに?
さて、冒頭のA君、後日ヒストリーの授業でパール・ハーバーを学ぶと、息子に対する態度が一転。息子は無言で睨まれたり、冷たく当たられるようになってしまいました。「Aはそういう人なんだってわかったよ」と、息子はさして気にも止めていない様子なのでホッとしましたが、宗教や歴史によって脆くも崩れてしまう友情を目の当たりにして、子供なりに思うところはあったようです。そして、学校から帰ってくると、私のiphoneに問いかけるのです。
「ねえsiri、宗教って何?」
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