普通にこだわる日本、普通が見つからないアメリカ


現地校への入学が現実味をおびてきてからというもの、息子の緊張度合いは日々高まっていき、見ていて気の毒な程でした。 床屋へ行って「普通のアメリカ人の小学生みたいな髪型」にして欲しいとリクエストした結果、想像以上に短くされたと言って部屋にこもって泣き崩れていました。初日から持参する予定のお弁当の中身については2週間以上前から悩んでいて、とにかく「普通のアメリカ人の小学生が持っていくお弁当」にしてくれと、切々と訴えられました。




繰り返される「普通のアメリカ人みたいな」というフレーズは、みんなと同じことをしていれば大丈夫、という10歳なりに精一杯考えた処世術なのでしょう。いつの間にか我が子がこだわるようになっていた「普通」について、少し考えてみました。








そもそも普通ってなんだろう




私たちがよく口にする「普通」という言葉は、社会における「ルール」や「一定の水準」を表す意味で使われています。ここでいう社会とは、特定の、限定された、ひとつの組織や集団を指しています。例えば、誰かが「普通にご飯が食べたい」と言ったとします。この「普通」が、どの時代の、どの地域の、どの人たちにおけるスタンダードなのかは、人によって考えが違いますよね。和食を思い浮かべる人もいますし、ハンバーガーも思い浮かべる人もいるでしょう。

「普通」という言葉は、使う人がどの集団に所属しているか、使う人がこれまでどういった経験をしてきたか、ということに強く影響を受けますし、周りの環境の変化や自分自身の変化によって簡単に姿を変えます。「普通」って本来はとても流動的な概念ですよね。

多様性がある文化では、様々な「普通」の共存が成り立ちますが、日本は文化や宗教、人種などさまざまな面において一元的です。そのため、たったひとつの「普通」が固定化しますし、絶対的なものだと誤解されてしまいがちです。

世界中どの文化でも、所属する社会で「普通」に逆らう人は批判されます。公衆でお酒を飲むと人格を否定される社会もありますし、女性が発言するだけで批判される社会もあります。日本は同調圧力がよく強いと言われますが、どこの国にも同調圧力はあります。ただ、日本は「普通」の存在感があまりに強く、そのため「普通」からはみ出た人を排除しようとする強い動きが生まれるのかもしれませんね。



日本の小学校では、道徳の授業や給食、掃除など、規律ある行動や集団意識の育成が重要視されています。小学校で教えられることの中には、他文化の視点から見ると奇妙に感じることも数多くありますが、残念なことに、子どもたちは疑問を持つ機会を与えられません。学校で身についた「普通」はまるで世界の真理のように、子どもたちの思考の基盤になっていくのです。








アメリカの小学校には「普通」がない





話は戻って、ここアメリカ。
民族、宗教、価値観、ライフスタイル、さらには貧困や犯罪など負の側面においても、日本とは比較にならないほど多様性に富んでいます。息子が言う「普通のアメリカ人」と言うのはここには存在しないんだよと説明して見ましたが、やっぱりよくわからないようでした。




不安でいっぱいのまま、結局イチゴジャムのサンドイッチを持って初登校した息子。教室の前に集まったクラスメイトたちの姿を見て、親子共々唖然としました。ありとあらゆる人種の子どもたちが、ありとあらゆる出で立ちでいたのです。
白人、黒人、ヒスパニック、インド系、アジア系。黒い髪の子も、茶色い髪の子も、金髪の子も、左右でピンクとブルーに染め分けた女の子もいました。キラキラ光る猫の耳のカチューシャをつけた子もいましたし、メタリカのTシャツをきたツンツンヘアの子もいました(ちなみにお父さんはドレッドヘアでした)。映画マトリックスのようなサングラスをかけた子もいましたし、ターバンを巻いたシーク教徒の男の子もいました。バレリーナのようなチュチュを着た子もいれば、アイスホッケーのチームTシャツを着た子もいました。そして飛び交うスペイン語、フランス語、中国語、ハングル語、ヒンズー語、(その他判別できない言葉多数)。




ほとんどの子どもが移民、またはマルチレイシャル(複数の人種の血を引く人たち)で、皆それぞれ好きな格好をして、「普通」なんてどこを探しても見つからないのです。








どうなることかと心配していましたが、放課後、なんだかとても清々しい顔をして帰ってきた息子。「誰も自分のことをジロジロ見ないし、自由だし、友達もできたし、けっこう楽しかった」。そして明日からのお弁当はやっぱり白ごはんと和食にしてね、とリクエストされました。



ことのほか順調な滑り出しですが、きっとこれからは大変なことや辛いこともあるでしょう。でも覚えていて欲しいのは、いつでも自分らしさを大切に、そして相手のその人らしさを大切にして欲しいこと。「普通」を探すことに貴重な青春をすり減らさないで、人間の本質を探求していって欲しいものです。



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